部活指導研究協会通信

日々、生徒と真剣に向かい合う部活関係者に送ります。部活動が果たすことの出来る役割を最大限に発揮させるための活動を行っています。

単純にブラック部活が悪、ホワイト部活が善という切り分けでいいのか

ブラック部活が悪、ホワイト部活が善という単純な切り分けでいいのかということを思っています。

ブラック部活を長時間の活動を強いる活動、ホワイト部活を自主性を重視した短時間の活動として考えた時、単純にブラック部活が悪で、ホワイト部活が善という切り分けで良いのだろうか。

学校内で働く教員の立場から考えて、1番迷惑な教員は、実は、指導放棄、管理放棄だったりします。生徒の主体性を重んじて見守っていると言いながら、何もしないでお茶しているような教員はどこにでもいるものです。

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そのしわ寄せや尻拭いの負担を他の教員にさせておいて、決して積極的に生徒と関わろうとしないという問題のある教員の存在は、どの学校でも悩みのタネでしょう。

この場合、ブラック側ではなく、どちらかと言えばホワイト側なのですが、問題は大きいです。

逆に熱心さの余り行きすぎた指導をしてしまうことは、当然許されることではありませんが、長時間の練習を関係者の合意のもと行われている活動についても、ブラックだということで、日常的継続的に行われていないものも、その全てを否定して良いものか、ここも議論の余地があるところではないかと思います。

長時間やればいいというものではないという発想は必要だと思います。しかし、世の中の根を詰めて長時間打ち込む姿勢を全て否定するとなると、やはり違和感を感じます。

大事なことは、強制されてないということと、生産性のバランスの問題ではないでしょうか。つまり、ブラックでも自由意思に基づいたものは可で、ホワイトでも生産性が伴っていなければ不可なのではないか。

詰まるところ、教師としての使命感とは何かということになるかも知れないですね。